先日知り合いがマレーシアへ来訪していた際に、国立博物館へ行ってきたのでその備忘録。
国立博物館はKLセントラルから歩いて徒歩15分ほどのところ・・・だがいくつもの車道を渡り、幹線道路の上を歩いて(歩道だけど)やっと到達する。フォートラベルに道順を載せてくれている人がいたのでよかったがそうでなければたどり着けなかった。
国立博物館は1963年に開館したということで、60年ちょっとと長い歴史のある博物館。ここでは毎週金曜土曜に日本人の方が1時間のボランティアガイドツアーをされていて、それに参加してきた。博物館や美術館なんていうものは背景などを知らないと「へ~なんかすごそう」で終わるのでガイドがあるのであれば参加するのが得策だと思う。以下備忘録。
※本記事の内容はマレーシア国立博物館で学んだことをベースにネットで調べたりChatGPTに聞いて加筆したものが多く(というか後半はほぼそんな感じ)ので、その点ご承知ください。
先史時代など
- 板根・・・熱帯雨林によく見られる地表に大きく張り出した板状の根
- 旧石器時代=打製石器、サラワク州のニア洞窟
- 新石器時代=磨製石器、クランタン州のチャ洞窟
- 7.4万年前にトバ火山(Gunung Toba)が大噴火。その後の生態系にお大きな変化
- 1.1万年前に発見されたペラックマンの骨。当時の平均寿命が20歳であったところ、40年生きた。(先天性の障害があったのにもかかわらず)
- 青銅器時代、鉄器時代。紀元前1000年~期限後100年。ドンソン文化がベトナムから伝わった。ドンソン銅鼓などの金属製品。
- 考古学と歴史学の違い=考古学は文字のない時代の研究で、扱うのは文字記録(楔形文字・メソポタミア文明)の始まる5000年前以前。先史時代と呼ばれる。歴史学は文字記録が始まった以降の研究。文献に基づいて研究する。
シュリーヴィジャヤ王国など
- 青銅器時代、鉄器時代。紀元前1000年~期限後100年。ガラスは中東、ビーズはインドから伝わってきた。青銅器はベトナムのドンソン地域から。ドンソン銅鼓(通称ドンソンドラム)。ドンソン文化がベトナムから伝わった。
- ケダ州で栄えたブジャン谷(王国ではなく都市みたいなもの)。インド・中国・中東との交易の貿易拠点として栄え、インド文化の強い影響を受けた。3世紀~14世紀。7~13世紀にはシュリーヴィジャヤ王国の影響下。
- ブジャン渓谷は、ヒンドゥー教・仏教の文化圏 にあり、インドの影響が強い。シュリーヴィジャヤ王国の主要宗教は仏教だった。
- チャンディ=ヒンドゥー教・仏教の寺院遺跡のこと。ブジャン渓谷でも多数。中東のガラス、インドのビーズなどが多数発見されており、ブジャン渓谷が中東との貿易ルートにあった証拠。
- 現在のマレーシア政府はブジャン渓谷の保護に積極的ではないらしい。マレーシアはマレー人中心の国家アイデンティティを持っており、マレー系の人がこの遺跡の重要性を強調すると、インド系の文化を認めることになるから?とても興味深い。
- マレーシア人のルーツ=「マレー人=アラブ人やインド人の子孫」ではなく、「元々マレー半島にいたオーストロネシア系民族に、アラブ・インド・ペルシアの血が混ざった」?
- 5~9月は南西から北東への季節風が吹くのでインド中国方面に移動できる。インド・アラブ商人がインドの香辛料、宝石、中東のガラス製品を運ぶ。
- 南西季節風はマレー半島やボルネオ島を抜け南シナ海でも南西から北東に吹く(意外!)
- 11~3月は北東から南西への季節風が吹くので中国からインド方面に移動しやすい。中国商人が中国の陶磁器、絹(シルク)、茶を運ぶ。
- 中継地であるマレーシア(ブジャン、マラッカ、ペナンなど(時代によって違う))は滞在するを風待ち交差点。インド・アラブ商人や中国商人が滞在して栄えていった。
- シュリーヴィジャヤ王国はスマトラ島のパレンバンに出来た王国。13世紀にマジャパヒト王国(ヒンドゥー系)が勢力を拡大していった影響で後に消滅。
マラッカ王国ら辺
- シュリーヴィジャヤ王国が衰退した後、マジャパヒト王国が勢力を拡大したが、イスラム商人が台頭するにつれ、衰退。一方イスラム文化に大きく影響を受けたマレー諸国が発展。特にシュリーヴィジャヤ王国が滅びた後、スマトラから逃れた王子パラメスワラ(Parameswara)が1400年にマラッカを建国。
- マラッカ王国はイスラム商人を積極的に受け入れ、明とも良好な関係を築き、ポルトガルが到来するまで東南アジア最大の貿易拠点となった。
- 当時はヒンドゥー文化の影響を受けていたが、15世紀(1424年)に王族がイスラム教に改宗。その影響でマレー半島全体にイスラム化が広まった。マラッカ王国の「マレー語+イスラム文化」の組み合わせが、現代マレーシアの原型となった。
- クリス(Kris)とは東南アジア特有の短剣であり、武器としてだけでなく、「富・権威・神秘の象徴」としても重要な役割を果たした。マラッカ王国の王や貴族、戦士たちが使用し、現在でもマレー文化のシンボルとされている。
大航海時代(植民地時代)。ポルトガルがアジア進出
- 15世紀に入り、ヨーロッパの国々が世界各地へ航海し、貿易・植民地支配を広げた。東南アジアも然り。目的としては、東南アジアの香辛料(ナツメグ、クローブ、シナモン)の独占、キリスト教の布教、イスラム商人の支配からの脱出、国力の増強(海外領土を増やす)などがあった。
- 中でも1509年にポルトガルが初めてマラッカに到達。1511年にはアルフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカを攻撃、征服。マラッカ王国は逃亡して、ジョホール王国を建国した。
- 現在マラッカに残るサンチャゴ要塞はその当時にポルトガルがマラッカ王国やオランダとの戦いに備えるために作った要塞。
- ポルトガルはマラッカを要塞化し、東南アジアの貿易拠点とした。マレー系イスラム商人はジョホール王国やアチェ王国(スマトラ島)に拠点を移し、ポルトガルと対立。ポルトガル支配のマラッカは1641年まで続いた。
- 香辛料は、食料の保存、薬や治療。宗教儀式などに使われていて貴重だった。アラブ商人・インド商人が高値でかわされていたので、ヨーロッパの国々は独自のルートを築き、直接手に入れたかった。
- インドで1kgのコショウが数セントでも、ヨーロッパでは100倍以上の価格で売ることができたし、香辛料は軽いが高価なため、輸送コストが低く、利益が大きかった。
- 特にモルッカ諸島はその昔、香辛諸島とも呼ばれ、世界で唯一クローブ、ニクズク、ナツメグといった香辛料が栽培される伝説の島として知られていた。(その後1770年代にフランスの冒険家ピエール・ポワブル(Pierre Poivre)が、密かにナツメグとクローブの苗を持ち出し、モーリシャスやインド洋の島々で栽培を開始したのを皮切りに世界中に広まっていった)
オランダがマレー系(ジョホール王国)と組んで進出
- ジョホール王国はマラッカ王国の子孫がポルトガルの攻撃から逃れてジョホールに逃れて出来た王国。ポルトガルの香辛料貿易独占を破りたかったオランダ。ポルトガルは共通の敵だった。1641年にオランダ+ジョホール王国 vs. ポルトガルが戦い、ポルトガルが敗北。
- 1641年~1824年まではオランダがマラッカを支配。ただこの頃にはマラッカはポルトガルとマレー系勢力(ジョホール王国・アチェ王国)の戦争が続いた影響で経済が悪化しており、「かつての貿易拠点」となっていた。
- ジョホール王国としてはマラッカを取り戻したかったが、18世紀に入り、海洋民族であるブギス人の台頭などで内紛が起こり、オランダと戦うどころではなくなった。
- オランダは、東南アジアの貿易を独占するためにオランダ東インド会社(VOC)を作っていたが、香辛料貿易がその取り扱いの中心であったため、拠点はジャワ島に移した。そのためマラッカは更に衰退。
- ポルトガルはあくまで香辛料貿易の中継地点として考えていた(&ジャワ島のイスラム王国(マタラム王国)が強力だった)のでマラッカを拠点にしたが、オランダは香辛料の産地(モルッカ諸島)を直接支配し、香辛料を独占する戦略だったため、東南アジアで最も人口が多く、農業生産が豊富だったジャワ島(バタヴィア)を拠点に選んだ。(ポルトガルは「貿易支配型」、オランダは「生産地支配型」の戦略)
- オランダvsマタラム王国。内紛を利用してスルタンを傀儡化。1755年に支配が確立。
中国商人、プラカナン文化(ババ・ニョニャ文化)など
- プラナカン(Peranakan)はもともと「外国人移民と現地人の間に生まれた子孫」という意味であり、東南アジアに移ってきた男性と現地の女性が結婚して生まれた子孫、という意味。
- 中華系だけでなく、インド系・ヨーロッパ系・アラブ系のプラナカンも存在するが、歴史的に最も影響力が大きく、文化的にも独自性が強いため、「プラナカン=チャイニーズ・プラナカン」と認識されることが多い。
- 中華系商人は主に道教や仏教を信仰していたが、現地に順応する傾向が強かった。そしてそもそもマラッカ王国がイスラム教に改宗するまでは現地(女性)側も宗教的な縛りはあまり強くなかった?ので結婚の障害にならなかった。
- ババは福建語(またはペルシャ語由来)=父や紳士。中華系プラナカン男性を「ババ」と呼ぶ
- ニョニャ=ジャワ語・マレー語で(主に外国人の)「貴婦人」や「奥様」だったが中華系プラナカン男性と結婚する女性のことをそう呼ぶ様になった
- 明は植民地化政策にあまり積極的でなく、朝貢貿易を通じて東南アジアに権力を拡大しようとした。植民地化を進めてヨーロッパ諸国とは対照的。
- 明の永楽帝の時代に鄭和の遠征(1405年~1433年の間に7回)。マラッカ王国は明の冊封を受け、中国の支援を受けてイスラム貿易ネットワークの中心地となった。この遠征により、中国とイスラム世界の関係が強化された。永楽帝の死後、明の財政悪化と内政問題などで遠征は中止となり、東南アジアへの関わり合いが縮小した。
イギリスの進出と英蘭協定(ロンドン条約 1824年)
- フランス革命戦争(1792~1802年)とナポレオン戦争(1803~1815年)でオランダがフランスの支配下になった。海外にあるオランダの植民地もフランス統治下になる。ナポレオン戦争でフランスと戦っていたイギリスは、フランス統治下の海外植民地を次々と奪った。
- 1811年にイギリスがマラッカを占領。フランス戦争終了後、1815年にオランダ王国は復活。1818年にマラッカは返還した。
- ジョホール王国ではスルタン・マフムード3世が1812年に亡くなり後継者争いが勃発。ジョホール王国は、マレー半島とスマトラ島にまたがっていたが、イギリスがフセイン王子(長男)を支援し、シンガポールを設立。オランダがアブドゥル・ラフマン(弟)を支援し、リアウ諸島(スマトラ側)の支配を確立した。
- 1824年にイギリスとオランダは、東南アジアの勢力圏を整理するために、英蘭協定(ロンドン条約)を結んだ。
イギリス支配のスマトラ島ベンクーレンとオランダ支配のマラッカを交換。オランダがシンガポールをイギリス領と正式に承認。
海峡植民地~マレー連合州、イギリス領マラヤ
- 当時インドを支配し、清に手を伸ばそうとしていたイギリスは接続ルートとしてマレー半島が必要としており、ペナン、シンガポール、マラッカをあわせて1826年に海峡植民地(Straits Settlements)を成立させた。(その後、1842年にアヘン戦争で清に勝利して香港を手に入れ、1877年にインドにインド帝国を作り、支配を強固なものにした)
- 元々ペナン、シンガポール、マラッカを治めており、当初はペナンが首都だったが、1858年にシンガポールが首都に変更。シンガポールを貿易拠点とした。シンガポールを中心にそれまでバラバラだったが統治を一本化し、中央政府による統治が可能になった。
- 19世紀後半、海峡植民地と足がかりにイギリスはマレー半島内部への影響を強めた。1874年にはペラ王国で起こった王位継承争いと中国人錫鉱労働者の対立を口実に、介入し、スルタンを支援する代わりに、イギリス人「レジデント(Resident)」を常駐させることを要求。実質的に植民地化した。
- 同様のやり方で他のスルタン国(ペラ、スランゴール、ネグリ・スンビラン、パハン)を保護国化し、植民地支配が進行した。1895年には「マレー連合州(Federated Malay States)」を形成し、マレー半島の大部分をイギリス支配下に治めた。
- ペラ州、スランゴール州では錫鉱山(すずこうざん)、ネグリ・スンビラン州、パパン州ではゴムプランテーションが拡大した。それぞれ中国人労働者、インド人労働者が流入した。
- 錫(すず)とゴムは産業革命による世界的な需要に応じる形で発展。スズはブリキ(鉄をスズでメッキしたもの)やはんだ(鉛とスズの合金)、青銅(銅とスズの合金)などを作るのに使われた。特にイポー(ペラ州)は「東洋の錫の都」と呼ばれるほど繁栄した。
- マレー半島はゴムの栽培に適した熱帯気候。今でも天然ゴムの8割は東南アジアで産出。天然ゴムは自動車のタイヤに利用された。イギリス資本が農園経営を主導し、大量のインド系労働者(特にタミル系)が移住。スランゴールとジョホールがゴム産業の中心地であり、インド系住民の定住率も高かった!
- 19世紀末ごろまでには、非連合州(ケダ、クランタン、トレンガヌ、ジョホール、ベルリス)に関しても圧力を強め、事実上植民地支配下にした。マレー連合州はスズやゴムなどの資源の豊かな重要な地域であったこともあり、保護国とはいえ、実質的な直接統治を行ったが、非連合州は資源に乏しかったこともあり、植民地化が遅れた。
- 海峡植民地、マレー連合州、マレー非連合州の3つを合わせて「イギリス領マラヤ」と呼んだ。正式には1826年から1957年まで(131年間)の統治。
「マラヤ(Malaya)」の名称は、サンスクリット語「Malayadvipa」やタミル語「Malaiyur」に由来し、古代からマレー半島を指す名称として使われてきた。それをそのまま継承した。 - イギリス領マラヤでは、都市部でスズ産業、都市部のビジネスに従事する中国系、伝統的な農業に従事するマレー系、ゴム農園労働に従事するインド系と、民族ごとに異なる経済、社会的役割が割り当てられ、格差が生まれた。
日本軍の占領とマラヤ連邦の成立
- 戦争継続のために「石油・ゴム・錫」が必要だった日本は、世界最大のゴム産業と錫鉱山を抑えるべく1941年12月に真珠湾攻撃と同時にマレー半島へ侵攻。当時イギリスはヨーロッパ(ドイツとの戦争)に集中しており、東南アジアの防衛は手薄であった。日本はその間に東南アジアを一気に制圧しようとした。
- また資源確保以上に、当時東南アジアの最重要拠点であったシンガポールを攻略することにより、東南アジアへの侵攻の足がかりにしようとした。
- 日本は、現地で諜報活動を行い、現地の指揮の低いイギリス軍内のインド人やマレー人とも連携。インド独立運動家のチャンドラ・ボースと協力し、「インド国民軍(INA)」を組織して、イギリス軍に対抗させた。マレー半島奪還戦は植民地支配下における「白人植民地支配 vs. アジアの民族意識」という側面もあった。
- 第2次世界大戦後、1946年にイギリスはすべての住民(マレー系・中国系・インド系)に平等な権利を与える「マラヤ連合」を作ったが、マレー人(特に伝統的な支配層のスルタンたち)がこれに強く反対し、イギリスの方針は失敗。反対運動を主導したのは、マレー人を中心とする「統一マレー国民組織(UMNO)-United Malays National Organisation)」
- 1948年にマレー人の政治的優遇を維持しながら、中国系・インド系の影響力を抑える妥協案で「マラヤ連邦」を作った。ちなみにシンガポールは、
―イギリス側にとっては、東南アジア最大の貿易港・軍事拠点だったので、直轄統治を続けたかった
―マレー側にとっては、シンガポールを統合すると華人の人口比率が上がり、マレー人の影響力が低下することを恐れた
という利害一致でこの時点では統合されなかった。 - 日本占領時にはイギリスから支援を受けて日本と戦っていた中華系住民を支持基盤とする共産主義勢力(マレー共産党ーMCP(Malayan Communist Party))が、イギリス支配に対してゲリラ戦を展開(マラヤ緊急事態)。その後もマレー系中心の社会に納得せずマラヤ連邦に対して引き続きゲリラ戦を展開。間が空くこともあったが、1989年まで続いた。
- 1957年8月31日:マラヤ連邦が独立(Hari Merdeka)。ただしこの時点ではマレー半島のみ。
- マレー人優遇政策(ブミプトラ政策の原型)が導入されたことで、中華系・インド系の不満が高まった。1969年には華人系政党が躍進し、マレー系政党が議席を減らしたことが原因で「5月13日事件」で民族対立が暴力化し、1971年:新経済政策(NEP: New Economic Policy)が導入。マレー人優遇政策がさらに強化された。
マレーシア連邦の結成と東マレーシア
- 当時マラヤ連邦内では中華系マレーシア人の人口割合がどんどん増えていっており、ラーマン首相を中心とした政府幹部はこのままでは政治もコントロールされるのでは、と考えており、マレー系の人口の多い東マレーシアを組み込むことで、マレー系の権力を保とうとした。
- 1957年のマラヤ連邦の時点ではマレー半島だけだったが、1963年9月16日にシンガポール・サバ・サラワクが加わり、「マレーシア(Malaysia)連邦」が誕生。9月16日を「マレーシア・デー(Hari Malaysia)」として祝う。
- マレーシア連邦の成立も8月31日に合わせたかったが、インドネシア(スカルノ首相)やフィリピンが強く反対して、1963年8月31日を過ぎてしまい、同意を取り付けることが出来ないまま独立。その後1965年にスカルノ首相が失脚するまで対立は続いた。
- スカルノ首相が独立に反対したのは、ブルネイのマレーシア参加に反対する勢力を鎮圧するのにイギリス軍の介入があり、イギリスの植民地主義が裏で続いていると考え、それを嫌ったから。スカルノは「マレーシアはイギリスの傀儡国家であり、本当の独立ではない」と考えていた。またインドネシアこそ東南アジアのリーダーになるべきとも考えていた。
- 「サバ・サラワクもボルネオ島の一部であり、インドネシア系の民族が多いのだから、本来はインドネシアに統合されるべきだ」とスカルノ首相は主張したが、当時インドネシアが共産勢力が強く、共産主義化が進むのを恐れたイギリスの思惑もあり、マレーシア連邦に組み込むことを認めた。
- サバ・サラワク州でのコボルド委員会(Cobbold Commission)による住民調査が行われたが、投票ではなく、一部の代表者を対象とした面談方式であり、またインドネシアやフィリピンなどの第三者は立ち入ることができず、不透明なプロセスだった。
- ブルネイがマレーシア連邦加入に同意しなかったのは、ブルネイは絶対君主制でスルタンが全権を握る独裁国家であり(ブルネイには政党も選挙もない)、マレーシアに組み込まれるとブルネイの王の権力が制限されることが予測されたから。
- またブルネイでは1929年に石油が発見され、イギリスの石油企業(シェル)が独占的に採掘していた。ブルネイの石油収益は「イギリス政府・イギリス企業・ブルネイ王室」で分配されており、イギリスとしても石油利権を維持するために、ブルネイのマレーシア加入に対してはあまり積極的ではなかった。1984年までイギリス保護領として支配を続けた。
- サラワク州の沖合はマレーシアの国営石油会社「ペトロナス(Petronas)」が開発。その恩恵を首都クアラルンプールがあるマレー半島の方に還元されており、「サラワクの石油でクアラルンプールが発展した」といわれるほど(らしい)。ということもあってサラワク州の住民には不満もある。
シンガポールの統合と独立
- 1963年にマラヤ連邦になった時にシンガポールを組み込まなかったのは、マラヤ側=「中華系の割合が増えるのを抑えたい」、イギリス側=「東南アジア最大の貿易拠点を手放したくない」というそれぞれの思惑が一致したからだった。が、マレーシア連邦を成立させる時にはシンガポールが組み込まれた。これはなぜか?
- イギリス的観点→1960年代に入り、シンガポールでは共産主義勢力が拡大し、中国(毛沢東)の影響を受けた左派運動が強まっていた。シンガポールがイギリスから独立して共産主義になると完全に影響力を失うので、マレーシアに統合して、共産主義の影響を抑えられると考えた。
- 当時のサバ・サラワク(マレー)の人口よりシンガポール(中華系)の人口の方が多かったりので、ラーマン首相などマラヤ連邦側は政治的リスクを恐れたが、マレー人の多いサバ・サラワクだけを統合すると国際的に民族差別的に見られるリスクがあり、「シンガポールも一緒に統合すれば、『多民族国家としての正当性』が得られる」と考えた。ただ経済的にはシンガポールを組み込むことによってプラスに働くとも考えていた。が結局イギリスの圧力もあり、シンガポールも組み込んだ。
- シンガポール側としては、イギリスはアジアから徐々に撤退しつつあり、「イギリスなしで生き残れるのか?」という不安があった。天然資源がなく、食料や水もほぼ輸入に頼っていた。また、リー・クアンユー率いる人民行動党(PAP)は共産主義者との対立を深めていたが、共産勢力を完全には抑え込めていなく、もしシンガポールが独立したままなら、共産党がさらに勢力を伸ばし、中国と近い関係になるリスクがあった。諸々含め「マレーシアの一部になれば、経済の安定、食料・水の確保、共産主義の封じ込めができる」と考えた。
- その様なことから1963年に一緒にマレーシア連邦になったが、たった2年後の1965年に独立。主な原因は民族対立。、マレーシア政府(特にマレー系の政治家)は「マレー人優遇政策」を強化し、中華系住民との対立が激化。リー・クアンユーは「マレーシア全体での民族平等」を主張したこともあり、マレーシア側と対立して、わずか2年で追放された。
現在のマレーシア
- 1965年から現在のマレーシアの領土で歩み始めた。1965年~1981年はマレー系支配が固まり、中華系との対立が根深くなった時期。
- 1981年にマハティール首相が就任し 「ルック・イースト政策」で工業化を推進した。クアラルンプールが東南アジアの経済ハブに。アジア通貨危機(1997年)で経済が打撃を受けるも、強権的な政策で乗り切る。工業国として発展し、中所得国(Middle-income country)になった。
- 2000年代に入ってからは、ナジブ・ラザクが明確な親中派だったこともあり、ナジブが首相だった(2009年~2018年)には特に中国との経済関係が強まり、経済的に依存度が高まった。2009年に作った1MDBが汚職の温床になっており、ナジブ首相の個人口座にも7億ドル(約1000億円)以上が送金されていたことが判明。1MDB事件は世界的にも例を見ない大規模なマネーロンダリングとして世間を驚かせた。
- 2018年の総選挙では、ナジブ政権は1MDB汚職問題の影響で国民の反発を受け、マハティール率いる野党連合に敗北。マハティールが再び首相に就任すると、親中路線を見直し。、東海岸鉄道計画などの大規模なインフラプロジェクトを縮小した。
- マレー系(ブミプトラ)優遇政策(1971年~現在)が続いており、中華系・インド系は「不公平」と反発するが、大きな変化はない。都市部では民族間の交流が増えているが、地方では依然として民族ごとの経済格差が大きい。
まとめ
そんな感じで、マレーシア国立博物館へ行ってきた復習をまとめるつもりが、マレーシアの歴史学習のまとめ記事みたいになってしまった。毎朝1-2時間x1ヶ月、全部で50時間くらいかかったかな。2月のブログ時間は全てマレーシアの歴史学習の時間となった。いや~楽しかった!!
今回の学習を通して、現在のマレー系、中華系、インド系が共存するマレーシアという国の成り立ちの基礎を学ぶことが出来た。ブミプトラ政策は今も続いている。マレー系が優遇される中で、中華系が国の経済を回すという構図は、マラヤ連邦ができてから、いやもっと前から変わっていないのだろう。「マレーシア人として」という文脈はその人の出身や属するコミュニティによってまるきり変わるので、日本なんかに比べると、国民をひとまとめに述べるのはとても難しい。今回学んだことを元にマレー系、中華系、インド系とそれぞれの友達と色々話をしてみたい。
参考にさせていただいたサイト
マレーシア国立博物館に関してはこちらのちーたろうさんの記事がとても分かりやすくまとめられています。マレーシア国立博物館へ行かれるのであれば、こちらで予習されていかれると、より深い学びを得られるかと思います。